日蓮大聖人様の教え

日蓮大聖人様の教え

釈尊(しゃくそん)は、今から約3000年前、人々を救うため50年間にわたって説法し、その最後の8年間で出世の本懐(目的)である法華経(ほけきょう)を説かれました。  この法華経の予言どおり、釈尊滅後2000年が経過し、釈尊仏法の功力がなくなる末法(まっぽう)時代に、民衆を救済する仏として出現されたのが、日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)様です。  日蓮大聖人様は、法華経の極理を御本尊(漫荼羅)として顕され、その御本尊に向かって“南無妙法蓮華経”の題目を唱えることにより、いかなる人も仏の境界に至ることができると説かれました。

法灯750年の清流

日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)は、建長5年(1253)4月28日に、日蓮大聖人様が“南無妙法蓮華経”の宗旨を建立されたことにはじまります。  日蓮大聖人様は、多くの法難に遭いながらも、法華経の肝心である南無妙法蓮華経を弘め、弘安2年(1279)10月12日、信仰の根本である本門戒壇(ほんもんかいだん)の大御本尊(だいごほんぞん)を建立されました。その後、日興上人(にっこうしょうにん)を第2祖と定めて仏法の一切を付嘱し、同5年10月13日、61歳をもって入滅されました。  日蓮大聖人様の入滅後、身延の地頭・波木井実長(はきりさねなが)が、仏法に違背する行為を重ねたため、日興上人は正応2年(1289)の春、本門戒壇の大御本尊をはじめ一切の重宝をお持ちして、門弟とともに身延を離れ、翌正応3年10月、南条時光殿の寄進により、富士上野の地(静岡県富士宮市)に大石寺(たいせきじ)を建立しました。  日興上人への相承より740年、日蓮大聖人の仏法は、日蓮正宗総本山大石寺に正しく伝えられています。

日蓮大聖人様の御生涯

【ご誕生】
日蓮大聖人様は鎌倉時代の貞応元年(1222年)2月16日、安房国の東条郷片海(現在の千葉県鴨川市) という漁村で当時の身分制度のなかで最も低い漁師の子として誕生されました。誕生と同時に庭先に清水が湧き、蓮華が咲いたと伝えられています。

【宗旨建立以前 出家・得度】
日蓮大聖人様は、12歳で生家にほど近い清澄寺に入門し、「日本第一の智者となし給え」との大願を立てて修行と学問に励み、16歳で道善房を師として剃髪・得度されました。

【宗旨建立以前 諸山遊学】
そして、多くの仏典・書籍を求め、政治・経済の中心地であった鎌倉や、仏教の中心地であった京都や奈良などを遊学歴訪されました。

【宗旨建立以前 宗旨建立】
遊学の長い旅を終えた大聖人様は、故郷に帰り、法華経こそ最高の法であり、すべての人は南無妙法蓮華経によってのみ救われると説いて、宗旨を建立されました。

【鎌倉弘教 松葉ヶ谷の草庵】
日蓮大聖人様は、政治・経済の中心地であった鎌倉において弘教するため、松葉ヶ谷に小さな草庵を構えられました。1253年からの18年間、この地で法華経を弘められました。

【鎌倉弘教 辻説法】
日蓮大聖人様は街辻に立ち、法華経以外の教えを信じることは誤りであると説かれました。これを聞いた人々は大聖人様に悪口雑言を浴びせ、石を投げ、棒でたたくなどの迫害を加えました。

【鎌倉弘教 「立正安国論」奏呈】
当時の日本は、大地震や疫病などの災難が続いていました。日蓮大聖人様は「立正安国論」を著して為政者に送り、災難の原因は法華経に帰依しないことにあると幕府を諫められました。

【鎌倉弘教 松葉ヶ谷の法難】
しかし、幕府は諫言を受け入れるどころか大聖人様を怨み、他宗の僧侶と結託して大聖人様の草庵を夜襲しました。大聖人様は、弟子たちの懸命な守護によって、難を逃れました。

【鎌倉弘教 伊豆配流】
日蓮大聖人様が健在であることを知った幕府は、権力を以て大聖人様を捕え、取り調べをすることもなく、流罪に処しました。

【鎌倉弘教 小松原法難】
その後、幕府は大聖人様を赦免しますが、弾圧は続きました。大聖人様が病気の母に会うため故郷に戻ったとき、数百名の他宗信徒に襲撃され、大怪我を負われました。

【佐渡配流 竜口法難】
迫害はなおも繰り返されました。幕府は夜陰に乗じて大聖人様を斬首しようとしましたが、不思議な光り物が夜空に現れ、処刑人は恐れ逃げ、大聖人様を殺害することはできませんでした。 この時、大聖人様は末法の真実の仏・御本仏としての姿を顕されました。

【佐渡配流 佐渡へ】
その後、大聖人様は、鎌倉から遠く離れた北の離島・佐渡島へ流されました。この配流は、大聖人様の御化導の大きな転機となりました。

【佐渡配流 塚原三昧堂】
佐渡における暮らしは非常に厳しいものでしたが、大聖人様は御本仏として、片時も人々の救済を忘れることはありませんでした。

【佐渡配流 赦免】
幕府はようやく今までの過ちに気づいて大聖人様を赦免し、大聖人様の2年半にわたる過酷な流罪生活は終わりました。

【身延入山 第三の国諫】
鎌倉に帰られた大聖人様は、幕府に対して法華経に帰依せよと改めて諫められました。しかし幕府が諫言を受け入れることはありませんでした。

【身延入山 身延入山】
三度にわたる諫言を幕府が受け入れなかったため、日蓮大聖人様は隠棲を決意し、門下の育成に努められました。そして1279年(弘安2年)10月12日、出世の本懐である本門戒壇の大御本尊を御図顕されました。

【身延入山 血脈相承と御入滅】
日蓮大聖人様は、多くの弟子の中から日興上人ただひとりを後継者と定め、仏法の一切を付嘱されました。そして、その翌月、安祥として入滅されました。

【身延入山 富士山麓へ】
第二祖日興上人は、のちに富士山の麓に大石寺を開創されました。日蓮大聖人様の仏法は、唯授一人の血脈相承によって日興上人、 第三祖日目上人へと受け継がれ、現在まで絶えることなく、正しく承継されています。